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目次

(1)私と野球(1) 中学まで          (02年2月 7日)
(2)アンチ巨人  巨人ファンをやめたわけ  (02年2月13日)
(3)私と野球(2) 高校             (02年2月19日)
(4)私と野球(3) 大学             (02年3月 2日)        

(5)教職を選んだわけ              (02年3月 7日)
(6)私と野球(4) 杉並工業高校時代     (02年3月15日)      
(7)野球マンガの話               (02年3月29日)
(8)私と野球(5) 館高校時代その1     (02年4月16日)
(9)野球映画の話                (02年4月21日)
(10)私と野球(6) 館高校時代その2    (02年4月26日)

私と野球(1)  *中学生まで*

私が、野球を始めたのは小学校3年だったと思う。父親も野球をやっているわけでもなく、何となく始めた気がする。

 当時は、巨人、大鵬、卵焼きの時代である。(子供の好きな物の御三家である。) 巨人には、王・長嶋というスーパースターがいた。巨人は、いつも勝つ。最初負けていても勝つ。王は、いつもホームラン。長嶋は、チャンスにめっぽう強い。テレビで見ていても気持ちよかった。みんな巨人ファンだった。テレビマンガの「巨人の星」は高視聴率のお化け番組だった。自宅はテレビが白黒だったので土曜日午後7時半、カラーテレビのある友達の家に見に行ったのも思い出だ。

 初めて後楽園球場にナイターを行ったときの興奮は、忘れられない。だんだん暗くなって照明に灯が入り、芝のグランドがまばゆいばかりの緑色に浮かび上がった。そして、プロ選手のボール回し、打球の速さ、肩の良さ、フライの高さなど感激することだらけだった。試合が開始されてから、フライがあがるたびにホームランと間違ってしまった。一緒に連れて行ってくれた人の関係で巨人のベンチにも入れて、王や長嶋を身近に見ることができ、ピッチャーの悪童堀内はテーブルに足を投げ出していた。インパクトの強い光景だった。

 自分自身は地域にチームがあるわけでもなく、同じクラスの仲間と楽しむ程度。もちろんリトルリーグでやるという気持ちもなかった。ただ、卒業の文集には野球の一流選手になりたいとは書いていた。

 中学もそのころはとりあえずみんな野球部に入る。メキシコオリンピックでサッカーが銅メダルをとって盛り上がっていたし、私の中学は、全国大会にいくほどの強豪校で昼休みは全校生徒1500名のほとんどが校庭でサッカーをやっていた。それでも野球部の入部者は多かった。身長138cmの私ももちろん入部。野球でも私の中学は、都3位になるほどだったし、先輩が日大三高で選抜優勝したなど輝かしい伝統があった。1ヶ月もしないうちに部員は減っていく。ウサギ跳びやけつバットなど訳のわからない練習もあったが、野球が好きなので何とか続けた。

 顧問の先生がしろうとだったこともあり、夏休みも最初の1週間と最後の1週間しか練習しないので、学校以外のクラブチーム(軟式)にも参加した。ほとんど学校の野球部と同じメンバーだ。団地対抗野球でも関東大会に行くことができ、千葉県営球場で打撃賞のトロフィーをもらったのが、うれしかった。

 学校のクラブでもレギュラーを決める時期になった。顧問が素人のため、部員同士の投票で決めろということになり、挙手で決めた。私は自分が当然レギュラーだと思っていた。そして、何を血迷ったか、ライバルのときに挙手してしまった。その1票差でイレギュラーとなってしまったのだ。考えてみればそれほど実力があるわけでもなかった。いまでも悔やんでいるが、その悔しさが高校・大学へいってからそして今までの自分の野球への取り組みにつながっている気がする。
 結局、中学では悔しいこともあったが楽しく野球をして都大会・都下大会に行く程度であった。まさかこの年まで野球を続けることになるとは予想もしなかった。
(02 2/7)
 
アンチ巨人
    <巨人ファンをやめたわけ>

 私は、巨人ファンだった。しかし、いまでもある意味巨人ファンかも
しれない。巨人ファンは巨人のことをジャイアンツとよぶ。でも 私は、
ジャイアンツとは呼ばなかった。

 アンチ巨人は実は、巨人ファンらしい。巨人が負ければ喜ぶ人たち
のことだ。つまり巨人のことが気になってしようがないのだ。私は、
アンチ巨人長嶋ファンを自称している。でも今はどこが勝ってもあまり
関係ない。すごいプレー・これぞプロというプレーを見たいというのが
本当だ。イチロー、松井、松坂などのすごいプレーを見ると本当にどき
どきして幸せを感じるのだ。やっぱり野球は面白いと思うのだ。

 さて、巨人ファンをやめたのは、今はバラエティ化して、ワインの解説
までやっているあの江川卓が巨人に入団した時からだ。私たちが、
高校生の時はまだ木のバットの時代。高校2年から金属になった。
江川は、金属以前の超スーパースターなのだ。
 栃木県県大会決勝でも無安打無得点をやってのける。高校時代に
何回も完全試合や無安打無得点試合をしていた。日本中が江川個人
を目標にしているのだ。甲子園でもすごかった。柳川商業戦、相手打者
は全員バントをする。打てないからだ。それでもバットに当たらないほど
すごかったのだ。しかし、作新学院は打てないチーム。雨に見舞われた
り運もなかった。
 その運のなさは、どこまで続く。ドラフト会議でも阪急ブレーブス
(現オリックス)に指名されてしまい大学でも慶応大には入れず法政大
に入学。46勝をあげたが、山中さんの記録には及ばず。そして、2回
目のドラフト。クラウンライター(現西武)からの指名。巨人に入りた
かった江川は拒否。1年浪人することになる。

 そして、運命の空白の1日事件がおこった。ドラフトで指名した球団と
選手との交渉期間は1年。次の年のドラフト会議の前々日まで。つまり、
ドラフトの前日は空白の1日という巨人の解釈で突然入団の記者会見
が行われた。誰もが唖然として江川は悪役になった。
巨人はドラフト会議をボイコット。江川は、阪神が指名。すったもんだの
末、コミッショナーの裁定で一度阪神に入団してすぐにトレードで巨人に
うつるということになったのだ。とんでもないことである。

 その日から、私は巨人ファンをやめた。

 巨人ファンはやめたが、今になると考え方は変わってきた。、考えて
みればこの世の中、自分の仕事する場所を自分で選べないというのは
おかしいことだ。この江川の勇気ある(?)行動のおかげで、逆指名や
FAの制度ができた。いろいろと問題はあるが、江川のとった行動は
意味あることだったのだと思うえるようになった。
 (02 2/13)
私と野球(2)    *高校*

 昨年創立100周年を迎えた都立高校に入学した私は、勉強に
ついていけるか心配なこともあり、野球部に入部することを迷って
いた。ところが、同じクラス(男女共学なのに男子クラス)の同級生
が4人が先輩が各クラスに勧誘しに来たときに手を挙げた。
「みんなやるんだ」と思えて私も入部した。

 そのときの3年生はやはり迫力があり、エースの先輩はプロからの
誘いがあった。怖かったが、もちろん付け人制などはない民主的な
クラブだった。監督は、卒業生の先輩。大学生だったこの「監督さん」
(当時1年生は、そう呼んでいた。先輩は、名前で呼んでいたが)。
 今の自分はこの人に影響されている。野球に対する情熱のすごさ。
誰よりも早くグランドにいる。野球についてよく勉強している。選手に
考えさせて野球をさせている。そんな監督だった。監督を続けるため
に大学院まで行き、6年間も学生をする人は、聞いたことがない。
もちろん無償だ。野球をやりすぎて教職をとれなかったことは残念だ。
 東大和高校の佐藤道輔先生に心酔している人だったので「甲子園
の心を求めて」も買うことになった。。その影響か2年の春の修学旅行
では野球部員は選抜野球初日を見に行った。甲子園はまぶしかった。

 私の母校は、都立の中では強かった。当時まだ都立で甲子園に
行った高校はなかった。ベスト4が最高の成績。その監督時代では
ベスト8が最高だった。私が1年生まで木製バットの時代。東京も
160校1代表の時代である。その年はベスト16で明大明治に3−4
で惜敗。2年生では、シード校になったものの夏の大会では明大中野
の権投手(江川の連続無失点記録を破った投手)に無安打無得点試
合をされ、悔しい思いをした。

 そして、自分たちの時代になった。2年生では2塁手だった。遠投も
だめ。打撃もまだ非力だった。秋季大会では、ブロック準決勝で二松
学舎大付属に敗退。当時はブロック決勝に進出しないと春季大会へ
出場することはできなかった。バッテリーはしっかりしているが、
打撃が弱い。冬の練習は基礎トレーニングだけでなく、打撃もやった。
 私は、守備には自信があったが、打撃が苦手。それが冬にチーム
メイトの外野ノックをしているうちに、ボールをバットに乗せる感覚を
覚えた。春のシーズンからは生まれ変わったように打ちまくった。
肩もなぜか強くなり、バッテリー以外ではチーム一になっていた。
164cmだった身長も172cmになった。遊撃手がけがしたため、
2塁から遊撃手にコンバートした。

 いよいよ予選だ。春の練習試合では、桜美林・日大三に引き分け。
他の強豪校にも勝った。自信を持って大会に臨んだ。1回戦は、
1年前準決勝進出した専大付属。主砲の一発も出て、10−0の
5回コールド勝ち。
 次は世田谷工業戦。ここも1年前準決勝に進出している。初回に
不運なあたりで2点先取された。珍しいホームスチールで1点差。
1点を取られたあと5番の適時打で1点差。なおも2死2塁のチャンス。
私は、レフト前にヒット。同点と思いきや、相手外野手の好返球で
本塁寸前タッチアウト。その後追加点をとられ、無念の敗退。

 私の高校野球が終わった。
 
私と野球(3)  *大学・大学院*

 夏休みは、1日10時間。2学期からは学校から帰ってから1日6時間の
猛勉強の甲斐あって、現役で国立大学工学部に入学できた。
 通学時間が1時間半だったことや
理科系で忙しいことから、大学で野球
をすることにはまたも消極的だった。しかし、入学式後に勧誘され、女子
マネージャーからの電話があったことなどからなんとなく入部してしまった。

 私の大学は、東都大学野球連盟に所属しているが下位の部であった。
開会式・閉会式には神宮球場に赴くものの実際に公式戦をするのは
各大学のグランドであった。理科系のため、練習開始は4時ぐらいから
になる。監督もいるようないないような感じだった。それでも1年の時は
4年生が優勝し、神宮球場での入れ替え戦に出場した。

 秋からは4年生が引退し、なぜか1年生ながらショートで4番を打つことに
なりデビュー戦では決勝タイムリーを打った。しかし、それが良くなかった
のか。2年生のリーグ戦では、陰のクリーンナップつまり、7、8番を打つ
ほど低迷し、しかも守備では精神的な問題か送球がままならなくなった。
ひどいものだった。遠投力100m以上も意味をなさなかった。
 大学の成績も万年2位。入れ替え戦出場はできなかった。

 そして、3年秋自分たちの代になり、生まれて初めて主将に選出された。
このことが、私が教職を選びいままで野球を続けることになるきっかけと
なることになる。しかし、その秋までグランド工事のため練習場所の
確保が大変だった。また、自分自身チームを引っ張っていくことができな
かった。部員の出身校のグランドなどを借りて練習した。
 夏の合宿の成果もなく、秋のリーグ戦は最下位。4番で主将の責任は
重い。OB会では諸先輩から「グランドの問題ではない」などの罵声を
浴びチームメイトの「退部する」と言い出した。しかし、それが良かった
のか。冬の練習は、今までにない充実したものになり、秋季リーグ戦
終了後、ベテラン監督も招聘され春の合宿も行った。
 その成果が春季リーグ戦で発揮され、見事優勝。私も打率4割5分を
記録。入れ替え戦でも10年ぶりの勝利をあげた。しかし、自分自身は
入れ替え戦では、無安打で終わり悔いの残ることになった。
 高校では、2年の時に東西に分かれたため神宮球場での試合は夢
だったが、大学で3試合も経験することができた。まだ、天然芝生の頃の
神宮球場であった。

 入れ替え戦に破れ、4年生は引退するのが通例だった。卒業研究が
忙しくなるからだ。私は、神宮でヒットを打つことができなかった悔しさで
秋までやりたいと申し出た。異例のことだ。大学院進学も決まっていた
ので実際には可能だったのだ。しかし、研究室の仕事と野球の両立は
なかなか厳しいものであり、秋のリーグ戦では平部員として出場したが、
チームとして優勝することはできなかった。大学野球も終わった。

 ところが、修士課程に進学すると、後輩から練習の面倒を見てくれと
いわれ毎日の練習の手伝いをすることになり、その結果リーグ戦で
優勝することができた。自分がプレーするのではなく指導することの
喜びを感じることができた。この経験も教職を選ぶ大きな要因となった。
 
教職を選んだわけ

 大学院修士課程2年に進級するときに、どこに就職するかが問題になる。
私は、根っからの研究好きとは思っていないが、製造業に就職する学生が
多い大学であるから、当然どこかの会社に勤めるのだろうと思っていた。
バブルにはいる頃でどの企業にでも就職できる時代だった。

 ところが、そんなときに弟が、家出をした。「音楽を勉強するのでしばらく
家を出ます。探さないでください。」という置き手紙を残して。
 その弟は、その後メジャーデビューを果たした。今は、まじめに働いている。
 小学校・中学校・高校と漠然と「先生」という仕事はいいな。という気持ちは
持っていたが、私の大学で教員になる人は本当に少ない。教員になりた
ければ、ほかの大学に行った方がいいのだ。
 弟の家出によって、状況は一変した。父親の知り合いの私立高校の教員
にならないかと言い出した。私が企業に就職すれば海外や地方に行くことは
必至である。長男をそばに置いておきたいと思ったのだろう。そのころ両親
はすでに60歳を越していた。

 もともと教員になりたい気持ちがあったし、野球部の主将・コーチの経験
から「高校野球をやりたい」という気持ちが大きくなった。
化学の教員に
なりたいのではないのだ。しかし、教職の単位を全く履修していなかった
私は、教職の単位を取るため、修士課程の2年生になってで13科目を
履修することになる。また、教育実習をする必要がある。そして、私立で
一生同じ学校ではなく、自分の出身である都立高校の教員になりたいと
思えば7月には採用試験を受験しなくてはならないのだ。

 修士論文のための研究をしながら、受験勉強。そして13科目の講義を
受けるというのは並大抵のことではない。同じ学年の学生は夏休み前には
就職先が決まっていた。都立高校の教員の場合、7月の1次試験。9月の
2次試験をクリアして合格がわかるのが12月。就職先がわかるのが3月
という。厳しいものだ。もし、受験に失敗したらどこかに就職するのか
私の
仲人になった教授にいわれたが、「浪人しても受けます」と答えた。
 
 真夏の暑い日の学習院大学。前の日のゼミで習ったカリウムの英語名
などもでて運が良かったかもしれない。若干名の募集に300名ほどの
受験者。8月末の合格通知にほっとした。
 9月からは、大学の付属高校で教育実習。土日以外は、大学から通った。
大学に寝泊まりしたということだ。放課後に部活動をしている実習生は私
しかいなかった。生まれて初めて授業をする経験は、刺激的で楽しかった。

 10月に2次試験。6名の集団面接と個人面接があった。集団面接では
「生徒や保護者に信頼される教師になるためにあなたは日々どのような
努力をしますか。」というものだった。私以外は、学級通信を出すなどと
答える人が多かった。私は、「クラブ指導をします」と答えた。
 個人面接では、まず「大きいので後ろに下がって下さい」といわれた。
そして、「どんな本を読みますか」と聞かれて「佐藤道輔先生の『甲子園の
心をもとめて』です」と答えると「野球ですか。」とそっけなく話が進んだ。
化学の教員の面接で「野球」は場違い。吉と出るか凶と出るか。わから
なかった。

 12月に合格通知が来て、3月には、工業高校から連絡が入り面接。
採用された。いよいよ、教員生活が始まった。

 ただし、修士論文は困難を極め、毎日毎日終電または、泊まりの生活
が2,3ヶ月続いた。ここでも野球で鍛えた体力・気力が役に立った。
野球からは離れられない運命なのだ。
私と野球(4)  杉並工業高校時代

 新任の教師として赴任したのは、杉並区の上井草という閑静な住宅街に
あり近くに善福寺公園がある杉並工業高校だった。

 工学部を卒業した私の工業高校のイメージは「こわい」「勉強が嫌い」など
だった。ところが、行ってみるとブレザーの制服がありイメージは変わった。
また、工業科の先生方は自分の学校に誇りを持っておりパワフルだった。

 野球部は、軟式野球部だった。部員はそこそこいたし、私の1学年下の
日体大卒のバリバリの先生がいて元気にやっていた。2人の野球経験者が
顧問なので「硬式にしたい」という声はすぐに上がった。ただし、グランドが
狭く校内での職員の雰囲気は厳しいものがあった。当時の校長や生徒部の
先生が協力してくださり、都内の工業高校にアンケートをとったり、予算面
でも他クラブに迷惑をかけない、フリーバッティングは行わないなどの条件を
つけて硬式野球部に昇格したのは2年目の夏だった。相手は、プロからの
誘いもあった溝口投手を擁する明星高校。1−6で破れたものの好試合を
展開した。

 その秋は、初の秋季大会。「帝京と当たる可能性もあるんだぞ」と生徒
たちにいったら、今年の選抜にも出場する二松学舎と初戦であたることに
なった。桜美林高校での試合。なんと後から考えると相手の4番は、現在
ロッテの初芝選手だった。大きなホームランを打たれた。そして、そのまま
選抜に出場した。しかし、この経験は生徒たちに大きかった。どんなチーム
と戦っても、びびらなくなった。翌年の夏の大会では、延長11回を制し、
初戦突破。この勝利は、歴史的なもので昨年勝利をあげるまで夏の勝利は
この1勝だけだったのだ。2回戦では、國學院久我山との対戦。5回を
終わって3−4と大健闘したが、6回に大量点をとられ敗退。その翌年
久我山は選抜に出場。 なぜか対戦する相手高が甲子園にいったり、
未来のプロ野球選手と対戦する因縁が続く。なんと面白いことか。

 その後、杉並工業高校は、校舎改築になる。3年間グランドが使えない。
厳しい条件の中、母校の大学にいったりどんな場所にある高校でも出か
けていった。大会では、明治大学を経て日本ハムに入団する舟山投手を
擁する明大中野高校や江藤が主軸を打つ関東高校。都立で久々に準決勝
に進出した南野高校。後に甲子園常連となる国士舘高校など1,2回戦で
よくもこんなに強豪と当たるなと感じる。

 そして、6年の時は流れ、転勤する。
 杉並工業高校での経験は、野球だけでなく今の私の教員としての基礎を
作ってくれた学校だと思っている。いろいろな問題を抱えている生徒が多い
学校での6年間は、何にも代え難い財産である。
野球マンガの話

 みなさんにとっての野球マンガはなんだろう。

 私のとっての野球マンガは、「巨人の星」(梶原一騎作・川崎徹画)・
水島慎司作の「ドカべん」・「野球狂の詩」・「あぶさん」、ちばあきおの
「キャプテン」「プレーボール」だ。
 あだち充の「タッチ」・「H2」は新しいスタイルの野球マンガを開拓
しましたが、私の年代ではちょっとつついていけてない。

 「巨人の星」は、巨人・大鵬・たまごやきの時代の超人気マンガだった。
TVマンガについては前に述べた。講談社コミックス全19巻持っている。
初めてそろえた全集だ。
 中学時代から始まり、甲子園を経て巨人に入り、大リーグボールを
駆使して活躍する星飛雄馬。それを取り巻く父一徹や姉明子、親友の
伴宙太。ライバルには、花形満。左門豊作。アームストロング・オズマ。
巨人は、川上監督、王・長嶋が全盛期で登場。悲劇的な終了は、梶原
一騎特有のパターン。
 3,4巻は甲子園時代。青雲高校の投手として甲子園に乗り込むもの
の食中毒事件や血染めのボールなどハラハラ・ドキドキの連続。単行本
の中で一番ぼろぼろになっている。それだけ読んだと言うことだろう。
 なんと言っても私にとっての野球マンガは「巨人の星」だ。

 水島慎司ものは、とにかく長い。「ドカべん」は超長編マンガ。いつに
なったら終わるのだろうというのりだ。エース里中と主人公山田、それを
取り巻く殿馬やはっぱのいわき。ライバルも揃っている。
 とにかくながい。「ドカべん」はついにプロ野球にもなってしまい、いつ
まで続くか見当がつかない。
 「あぶさん」もながい。大酒のみのあぶさんが引退するのはいつかと
思っているうちについに息子がプロ野球に入ってしまった。ビッグコミック
オリジナルも読み応えのある大人のマンガ雑誌だ。いつまであぶさんは
野球ができるだろうか。頑張ってもらいたい。
 「野球狂の詩」は、初の女性プロ野球選手・サウスポー水原有紀の
活躍するマンガ。弱小球団の強烈な個性を発揮する人たちの物語。
ピンクレディーの「サウスポー」と重なって一世を風靡した。映画化も
された。映画としてはぱっとしなかったが。

 昔の野球マンガで、まじめなスポーツ根性ものとしてちばあきおの
「キャプテン」・「プレーボール」がある。「あしたのジョー」で有名な
ちばてつやの弟のちばあきおさん。本当に真摯に野球に取り組む
キャプテン木下君。心が洗われるようなマンガだ。その真摯な姿勢が
あだになったのか。ちばあきおさんは、自ら命を絶ったのは残念で
ならない。 

 一時、野球マンガが衰退した時期がある。しかし、このごろまた元気が
出てきた。「タッチ」や「H2」のあだち充も大きく貢献している。ミスター・
ルーキーも映画化された。また、楽しくわくわくさせる野球マンガが
でてきてくれることを期待したい。

 そのためには、高校野球にもプロ野球にもスーパースターがでてくる
ことが必要だ。Jリーグで厳しいと思ったとき、イチロー、松井が現れた。
甲子園の入場者数が減ってきたところで松坂大輔が現れた。今、大リ
ーグに人材が流出して厳しい状況。昨年の甲子園では寺原隼人が
でてきた。これからもいろいろなスーパースターがでてくることが面白い
マンガに通じていく気がしている。

 でてこいスーパースター!

(02 3/29)
私と野球(5)   館高校時代 その1

 今までの教員生活でもっとも多くの時間を過ごしたのが館高校だ。

 結婚してすぐに杉並工業高校から館高校に転勤した。4月1日から
グランドに行ったが、1学年10クラス全校生徒1500名を越える生徒
がいるのにグランドにいたのは9人。どうしたのだろうかと思った。
秋の大会が終わって大量の退部者がでたらしい。

 しかし、新1年生が14名入部した。しかも春休みから練習に参加し
て来た。その上、春休み中に9名のうちの一人が骨折し1年生が4月
から練習試合にでることになった。新しい時代が始まった。
 赴任してすぐの夏の大会は、法政一高との対戦。好勝負を繰り広げ
1−2で惜敗。またも強豪校と対戦する巡り合わせは続く。

 大会後新チームでの合宿は、大島だった。例年行っているのだが、
船を使わなければならないことと猛烈に暑いことが問題だった。海の
幸はおいしかったが。
 秋の大会は、1回戦城東高校をやぶり2回戦が国士舘高校。4−5
で惜敗。これが自信となった。それからどんな高校と対戦しても動じ
なくなった。冬を越え自信をつけ夏の大会を迎えた。

 2回戦は、実践商業(現実践学園)7回まで7−2とリードしたところ
で雨で順延。しかし、再試合も5−2の勝利。3回戦は東亜学園だった。
東亜学園は、不祥事から1年の謹慎処分明け。1回戦から登場してい
た。4回に4点を上げたが、本塁打で同点に追いつかれ終わってみれ
ば4−10の敗戦。しかし、なんと東亜学園はそのまま甲子園にでて
しまった。そして、現巨人の元木大介のいる上宮に惜しくも0−1で
破れたものの強かったのだ。東京大会で4点以上とったのは館高校
だけだった。3年が4名、2年5名で戦ったのだ。

 良い流れができて、結果として10年間でもっともキャプテンシーの
ある主将を中心に良いチームができていった。その秋の大会は
劇的な展開となった。1回戦墨田高校堤校舎という失礼ながら聞いた
ことのなかった高校との対戦。試合は一進一退のまま1点差で最終
回。2死無走者まで追い込まれたものの7番の主将の3塁打の後
1年生がレフト前の同点打。延長戦に突入し10回に2点を加え逆転
勝ち。しかし、ドラマはそこからだった。東京都の高校野球では秋の
大会に2回勝つことは大変な意味がある。春季大会の出場権を得る
ことができるのだ。2回戦で負ければ夏の大会まで公式戦がない。
つまり、1年間一生懸命頑張っても秋の大会で1回戦で負け、夏の
大会で1回戦負けすると年間で公式戦が2試合になってしまうのだ。
今、春季大会にすべての学校が出場できるようにしようという運動を
しているが、実現はまだ先のことだ。

 2回戦は、忠生高校。アクシデントは1回に起きた。館高の先発投
手が、忠生高校の先頭打者の頭部に死球を当ててしまった。故意で
はもちろんないが、その選手は動かなくなった。公式戦中にグランド
内に救急車が入ってくる事態に。試合終了後には無事グランドに戻
ってきたがその後の忠生高校の態度は鬼気迫るものがあった。
 試合は、やはり一進一退で進みやはり1点差で最終回になり、
一死無走者で7番の主将。レフトフェンスに直接当たる痛烈なライナ
ー。あまりにあたりが強く単打になった。次は1年の8番打者。ヒット
は期待できるものの長打は見たことがない。万事休すかと思った瞬
間打った打球はレフトフェンスを越える本塁打になった。2点本塁打。
大逆転だ。部員は狂喜乱舞。しかし、忠生高校は敗戦とともに負傷
者のこともあり険悪な雰囲気だった。その裏締めて大逆転勝利。
試合後生徒は涙・涙だった。たかが2回戦かもしれないが野球は
すごいと感じる試合となった。感激の涙を流した。
 3回戦は、拓大一高。2試合連続の大接戦を戦った生徒たちに力
は残っていなかった。0−7で7回コールド負けだった。

 冬の練習も熱が入り、出場権を得た春季大会がやってきた。秋季
大会を勝ち抜いた80校が夏のシード権獲得を目指す大会。1回戦は
明大中野だった。強豪である。しかし、エースになった主将の好投と
不動の4番の神宮球場での本塁打も飛び出し、9−5の快勝。
2回戦に進出。相手は4番にプロも注目のスラッガー原君(のちに
ヤクルト入団)率いる堀越高校。サードには野村監督の息子カツノリ
君もいた。健闘むなしく0−10の5回コールド負け。原君にはバック
スクリーンを遙かに越える大ホームランを打たれた。しかし良い経験
ができた。
 
 そして、夏がやってきた。2回戦は日大桜丘高校。全国優勝もした
ことのある強豪だ。中盤まで4−2とリード。主砲の豪快なホームラン
も飛び出した。しかし、じわじわと追いつかれ逆転負け。悔しい負け
方だった。

 悔しい思いはしたが、着実に力を付けて来ていた館高校。その後も
順調にいくかと思われたが、そうはいかなかった。

(02 4/16)
野球映画の話

 この間は、野球マンガの話をしたが、今度は映画の話。

 みなさんの印象に残った映画はなんだろう?野球映画はなかなか
難しい。プロ野球や高校野球などで一般の人も眼がこえていることも
あって実技の部分が厳しい。なかなかうまくいかないものらしい。

 日本では、野球映画といっても印象に残っているものはないと言っ
ていい。いま、長嶋一茂主演の「ミスタールーキー」が話題になってい
る。しかも阪神の快進撃でW杯でサッカーにあおられたプロ野球とし
てはほっとしていることだろう。しがないサラリーマンが夜だけ虎の仮
面を阪神のリリーフエースとして登場するマンガの映画化である。

 今まで見た野球映画で印象に残っているのを3つあげるとすれば
「がんばれ!ベアーズ」・「打撃王」・「フィールドオブドリームス」に
なるだろう。

 「がんばれ!ベアーズ」シリーズは、へたくそな子供たちを率いる
酔いどれ監督。野球がうまいが煙草はすうは、バイクにのりまわるは
大変な不良少年と、テイタム・オニール扮する女の子がからんで
強豪チームを破るまでに成長する物語。結構感動する。

 「打撃王」は、ルー・ゲーリッグの伝記映画。数々の記録を持つ不滅
の大打者。最終的には不治の病に倒れるが、映画の中でわかる彼の
誠実な人柄・生き方には感動する。タイプの違う大打者ベーブ・ルース
の伝記映画もたくさんある。孤児院から野球一本ではい上がり、アメリ
カのスーパースターまで上りつめたものの酒におぼれ、指導者として
野球界には戻ることができなかった悲しい運命には泣かされる。でも
非常に魅力的なことは確かだ。

 いままで見た野球映画のなかでもっとも感動し何度見ても泣けるのは
「フィールドオブドリームス」だ。
私たちの時代のスーパースター、オール
スター戦で9者連続三振の記録も持つ江夏豊もこの映画の大ファンだ。
 農場を持つ主人公ケビン・コスナーが、ある時夢を見る。往年のメジャ
ーリーガーがここで野球をしたいというのだ。主人公の父親も絡んでいる。
主人公は、家族に反対されても、とうもろこし畑を野球場にしてしまう。
 すると、どこからともなく往年のメジャーリーガーが集まってきて楽しそう
に野球を始めるのだ。その中には、昨年イチローの新人最多安打でまた
名前がでてきた八百長事件で球界を追放された「シューレス・ジョー」も
いた。みんな野球が好きなのだ。お金なんて関係ないんだ。ただ、野球
がしたいのだ。そして、その農場で本当に楽しそうに野球をしているのだ。

 その野球をやっている様子は、他の人には見えない。野球を愛し子供
心が残った人にしか見えないのだ。主人公の子供には見え、だんだんに
妻にも見えるようになる。そして、馬鹿にしていたほかの人たちにも見え
るようになり、最終的にはアメリカ中のファンがその球場にやってくる。
というおとぎ話なのだ。でも野球映画だ。本当に泣けます。

 ほかにも、とんねるずの石橋貴明もでた「メジャーリーグ」などやはり野
球映画は本家アメリカだ。アメリカでもやはり難しいらしいが、これからも
フィールドオブドリームス」を越える素晴らしい野球映画を期待したい。

 みなさんもたまにテレビで放映される野球映画を見てみてください。

(02 4/21)
 
私と野球(6)  館高校時代その2

 館高3年目に入り、順調に強くなるかと思えたが簡単にはいかなかった。

 日大桜丘に惜敗し、新チームがスタートした。夏の練習試合も圧勝つづき。
投手は2人。遠投100m以上が数人いてパワーのある打者も多かった。
しかし、秋の大会で小平に1回戦負け。自分の校庭で試合ができるのは
内弁慶を作ることでもあった。個性あふれる部員をなかなか掌握できず
まとまりのないチームになってしまった。夏の大会も自分の母校との対戦で
サヨナラ満塁本塁打まで打たれ5回コールド負け。まいった。

 次の代は、やや力不足。しかし、組み合わせがよく秋の大会で春季大会
の出場権を獲得した。しかし、次の早実戦はコールド負け。力不足で春季
大会は自滅したがいい経験にはなった。夏は、西高校との対戦。主砲の
西東京大会第1号本塁打が飛び出したが、敗戦。

 次の代は、投手陣が安定しており、面白いチームにはなったが秋は2回
戦で実践学園に敗退で春季大会にはいけず、夏の大会では最速140km
の主戦を擁する東京農大一に初回3点先制しリードしたもののじわじわと
追いつめられ逆転負け。悔しかった!

 そして、13期生の代になった。13名と大人数で目立った選手は、最速
130kを越える主戦投手のみ。気力があるのかないのかわからない部員
たち。しかし、誰も休まない丈夫な子たちだった。結局淡々としっかりやり
続けられることが実力なのだと思った。
 秋の大会では、府中東にコールド勝ち。2回戦では穎明館に5回完全試合
で勝った。外野に一本も飛ばなかった。そして春季大会出場権は確保。
いよいよその年の東京一の投手といわれた最速140kの早田君を擁する
拓大一高との対戦。立ち上がりの不安定さに乗じなければ得点は難しそう
だった。結局1安打しか奪えず、7回コールド負け。しかし、拓大一高はその
まま東京大会で優勝し、甲子園初出場を決めた。あれが甲子園かと少し
身近に感ずることができた。
 その代は、練習試合でも国士舘など強豪の1軍と試合をすることができた。
投手陣が安定していることはなんと恵まれたことか。

 冬の練習も淡々としっかりでき、春季大会を迎えた。久々の神宮球場だ。
相手は、墨田工業。勝てば国士舘との対戦だ。しかし、冬の練習で新2年生
でレギュラーだった2人が、退部状態になり打撃陣が急激に弱まっていた。
得点できず、0−4で敗退。墨田工業はなんと国士舘を破りシード権を獲得
した。打撃陣の弱体化は厳しかったが、淡々と練習や試合をこなし、いよいよ
夏の大会がやってきた。

 2回戦は、都立の強豪第四商業。監督は自身が甲子園全国優勝経験の
柘植先生(現高島高校監督)2年生中心の良いチームだった。実は、次の年
第四商業は、東京都大会準決勝まで駒を進める実力だったのだ。

 さて、この夏の大会はまたとんでもないドラマが演じられることになった。
35℃を越える猛暑の中、試合は進んだ。2点を先取されなかなか得点でき
ないまま7回裏館高校の攻撃も2死となったところで、一転にわかにかき曇り
猛烈な雷雨となった。プロ野球では5回で試合成立だが、高校野球では7回
で試合成立なのだ。私と部長(現小川高校監督)は「降れ!止むな!」と
祈った。田んぼのようなグランドを1時間半も眺め続けた。高野連の先生方は
なんとかあと1アウトとらせて試合成立させたいのだ。あたりまえだ。日程は
厳しいのだから。
 
 しかし、天は館高校に味方し雨天順延が決まり、次の日の4時から再試合
になった。しかし、次の日も雷雨で試合はできず、次の日の朝8時半からに
なった。会場は八王子球場。館高校部員は自転車で来られるが、四商部員
は、練馬から3日間2時間以上かけてやってくる。疲労は相当なものだろう。
再々試合となった3戦目は、守りの四商に守備の乱れがでて、3−2の勝利。
試合後、柘植先生と話したが「今までの野球生活のなかでこんなについて
なかったことは初めてだ!」とおっしゃっていた。すごい試合だった。

 勝利の余韻に浸るまもなく、3回戦は次の日の8時半。終業式の日だ。
生徒の応援は期待できない日に、宿敵東亜学園と対戦することになった。
エースの疲労もたまっている。雨天順延の影響で連戦になってしまった。
非常に厳しい状況だったが、生徒は素晴らしい試合を展開してくれた。
先制点をもぎ取り終盤まで互角の試合。7回に本塁打され引き離されたが
最終回の9回も粘りにねばり、東亜学園を大いに苦しめた。
 素晴らしい試合だった。

 しかし、素晴らしい試合を展開した3年生が引退したあと、部員は5人
しかいなくなった。苦しい時代を迎える。

(02 4/26) 

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