きたさんのひとこと

人はなぜマラソンを走るのか?
 今年の青梅マラソンは雪のため中止になりました。30回大会以来の2度目の中止。残念ですが半分ほっとしました。相当厳しい条件でのレースのなりそうでした。昨年の東京マラソンも厳しかったですがマラソンはいい条件で走りたいものです。

 さて、私が青梅マラソンを走り始めたのはHPにも書いたことがありますが30歳になったことの記念がきっかけです。始めた走ったときのことも書きましたが、まさか50歳になるまで走り続けるとは思っていませんでした。人はどうして走るのか。走らない人にはわからないものですがなぜはまってしまうのか。先日のTV番組で特集していました。

 ホノルルマラソンに出場した日本人にアンケートをとった結果が発表されていました。ホノルルマラソンに特有のこともありますがマラソンを走るものとして納得できるものでした。ここで書いてみたいと思います。

 まず第5位は「結婚記念」でした。これはホノルルマラソンならではだと思います。式を挙げてから走る人と走ってから式を挙げる人に分かれますがどちらにしてもおめでたいことです。家族や式に出席する方は大変そうですね。新婚旅行も兼ねているのでしょう。

 第4位は「ダイエット」のためです。実際に18kもやせた人もいました。走るのにはまるとやせることは確かでしょう。ただし、毎日5kではほとんどやせません。健康的になり逆に増える人もいます。毎日10kでは現状維持。毎日15kなら太ることはまずない。毎日20kではどんなに食べても大丈夫だということです。

 第3位は「還暦記念」です。これもホノルルマラソン特有のものだと思います。還暦で走ることができるなんて素晴らしいですね。実際にホノルルマラソンを走った60歳以上の方は1500人ほどにもなります。元気で年をとれるなんて羨ましいです。なかには95歳という方もいました。すごすぎます!青梅マラソンが中止になったきょうも65歳から走り始めたという方とお話しできました。その方の初マラソンもホノルルだそうです。

 第2位は「自分への挑戦」です。自分の限界を感じた時や何かを打ち破りたいと思った時にそのきっかけとしてマラソンを走ってみようと思う人は多いと思います。私もこれだった気がします。30歳になって瞬発力の低下をひしひしと感じ出した時、何かに挑戦してみたいと思って青梅マラソンに挑戦しました。

 そして、第1位は「達成感」です。これがやはり最高の理由ですね。一度マラソンを走ってみると他人との関係がまったく関係なくなります。何人に抜かれても何人抜いても前にもあとにもランナーがあふれています。勝ち負けでない世界。自分だけの世界。どんなタイムでゴールしても30kや42.195kを走り抜いた達成感・充実感は何ものにも代え難い宝物です。マラソンを走り終えてもう絶対走りたくないと思う人とじわじわとまた走りたいと思う人の二つに分かれます。私は後者ということですね。

 マラソンの魅力はやはり走ってみなければわかりません。ぜひ、この楽しさを経験して欲しいなと思います。ゆっくり走れば速くなるスポーツです。

 今年は中止になってしまいましたが、来年も青梅マラソンを走りたいと思います。ゆっくり楽しく走るためにもしっかり練習したいと思います。ただし、野球人の私は冬限定のランナーですが。

(2008.02.03)

中心性網膜症!
 みなさんは、中心性網膜症という病気を知っていますか?30代から40代の働き盛りの男性に多く発症する目の病気です。

 実は2ヶ月前のある日、いろいろなものを見ていて、うまく見えないなという感覚がありました。また老眼が進んだのかとも思いましたが、人の顔を右目だけで見たり左目だけで見てみると、左目で見た時に中心部分が、丸く暗く見えます。そして、全体も暗く見えしかも小さく見えるのです。さらにまっすぐの線が歪んで見えるのです。

 これはショックなことです。さっそく眼科へ出かけました。まず、視力検査と眼圧の検査、そして眼底検査と続きます。点眼薬をして瞳を開かせます。はやり目以来の眼科受診です。重大な病気かもしれないと結構びびって先生の診断を聞きました。

 「中心性網膜症ですね。」という言葉。生まれて初めて聞きました。何らかの原因で網膜のところに漿液がたまって網膜の中心部分が腫れてしまいうまく像を結ぶことができなくなるのです。3ヶ月から半年で完治します。ビタミンB12と消炎剤の内服治療です。レーザーや点眼するものではないのです。不思議な気がしました。

 「原因は何ですか?」と聞くと「ストレスです。」という答。昨年・一昨年両親をなくした時ではなく、職場が変わっていろいろなストレスがかかっているからなのだと言うことなのでしょうか。ある意味からだが悲鳴を上げたのかもしれません。

 中心性網膜症と同じような症状の病気に「加齢性黄斑変性」というのがあります。高齢者に多く失明の可能性もあるおそろしい病気です。その可能性もないわけではないのですが、中心性網膜症の特徴に、片目だけに発症することがあります。黄斑変性の場合は両目に発症しますが、中心性網膜症の場合は片目だけなのです。不思議な病気です。

 男女の発症率も面白いです。男性が4に対して女性は1。男性の病気といえます。男がストレスに弱いこともこれでわかりますね。心療内科を受診する患者さんの多くに見られる病気なのです。

 しかし、黄斑変性と違ってしっかり治療すれば完治しますし、良性のものだそうです。受診してからインターネットでいろいろ調べたりしました。ストレスがたまらないようにすることはなかなか難しいことですが気分転換をうまくしていかなければいけません。今年もいろいろとストレスがかかることがあったことは事実なので体はうそをつかないんだなとも思います。

 薬を飲み始めても劇的に症状が改善されることはありませんでした。3ヶ月から半年かかるらしいので気長に行きましょうといわれました。心配なこともありますがコツコツと薬を飲み続けていたら、2ヶ月たったところでだいぶ改善されてきました。

 薬の種類も少なくすることができるようになってきました。このまま完治してくれることを祈っています。みなさんもストレスには気をつけて下さい。

 

(2007.12.06)

立川駅1番ホーム!
 皆さんはJR立川駅の1番線が25年間なかったことを知っていましたか?結構有名な話ですが、ecute(エキュート)という改札を出なくても入れるお店群が10月5日に開業し、立川駅がリニューアルされるのを機に本来の番線表示に戻しました。

 私が高校時代に使っていた頃の立川駅には1番線がありました。競輪が行われる日には乗り降りで使用したり、貨物列車の発着に使っていた気がします。そのころの立川駅は地下通路で暗く南武線からおりてくる人たちの波がおそろしかった記憶があります。青梅線、南武線とも焦げ茶色のいわゆる「ごきぶり電車」ですね。真ん中につかまり棒があり、何ともレトロでした。

 それが、駅ビルLumine開業とともに1番線はなくなることに、名称を変えることで混乱するのを防ごうとしたのでしょうか。新宿駅が改装された時、2つずつホームの名称が変わって少し混乱したことを覚えています。国分寺駅の多摩湖線が0番線というのもありますし、こんな駅は日本中にもあるかもしれません。でも不思議な駅だなと思っていました。何かというと1番線の話題ができていたので残念ですが、本来の姿になって1番線も嬉しいと思います。良かったですね。

 立川は、市と商工会議所などが協力して立川駅の北口・南口の開発に力を入れ、モノレールも順調に運行され、戦争中戦争後のやや暗いイメージを完全に払拭しました。ひとり一人のエゴでなく、ビジョンを出して協力して取り組んで成功した素晴らしい例となりました。この新駅ビルの誕生でさらに発展して行くことでしょう。

 昔を知るものとして、1番線がない立川駅でなくなったのは少し寂しいですが、今後の立川駅の益々の発展に期待し、注目して行きたいですね。

 1番線復活おめでとうございます!

(2007.10.21)

世にもおそろしい話!part1
 夏になると怪談話がはやりますね。スーッと首筋がひんやりする話しは夏らしいなと思います。そこで先日聞いた本当にあった世にもおそろしい話しをします。といっても幽霊話ではありません。でも本当におそろしい話しです。

 ある人がそば屋さんに入りました。そばか定食を食べていると隣にある男性が食事をしていました。そして、食事が終わりいっぷくという感じでお茶を飲みながら、テーブルに備えられている楊枝(ようじ)をとって歯の間の掃除をし始めました。別に変わったことはありません。しかし、そのあとに世にもおそろしいことが起こったのです。

 何とその男性は、今まさに自分の歯の間を掃除した楊枝をていねいにテーブルの楊枝入れに戻したのです。これはすごいことです。おそろしいことです。考えれば考えるほど怖くなるでしょう。

 この現場を見た人は二度とテーブルにある楊枝を使うことはなくなったそうです。そして、その話を聞いた私もテーブルの楊枝に手をつけることはなくなりました。その話しのせいかわかりませんがこの頃テーブルに備え付けてある楊枝はひとつひとつ包装されているものが多くなった気がします。このおそろしい話しが密かに浸透しているのではないかと思っています。 

(2007.07.05)

あごの骨折のお話しE
 あごの骨折のお話しも最終回となります。上下の歯をつないでいたワイヤーがはずれて口が開くようになり、開放感はあるものの違和感は取れません。とくにあごの筋肉が緊張していて思いの外痛いのです。もっとすっきりするものだと思っていたのですこしがっかりでした。

 さて、歯に巻いてあるワイヤーをはずす日が来ました。まずは上の歯に巻いてあるワイヤーをはずします。1本1本の歯に二回りしてあるワイヤーをニッパーで切ります。別に痛くはありません。ああこんなものなのだとほっとしていると担当の先生から「きたさん、これからが大変ですよ!」といわれました。そして、切ったワイヤーを歯と歯の間からペンチで抜いていくのです。1本の歯に2本ずつなので上の歯だけで30本ぐらいあります。

 「麻酔しますか?」と聞かれましたが「いいです。」と答えました。いよいよ抜いていきます。これが巻く時とは違う猛烈な痛さなのです。1本抜くたびに「ひえー」とか「ぎゃー」という悲鳴がでます。体も硬直します。涙もちょちょぎれます。すべてのワイヤーが取れた時には力が残っていませんでした。とにかく上の歯からワイヤーがなくなりました。

 次の通院のときに下の歯のワイヤーを抜きました。しかし、上の歯のワイヤーを抜いた時の痛みはありませんでした。不思議でした。そうすると担当の先生から「人間慣れるんですよ。」と軽くいわれました。層なのかとも思いましたが、上の歯の方がやりにくそうです。それも痛みの原因なのかと思いました。これで完全にワイヤーが取れたことになりました。長い道のりでした。下の写真は歯の矯正につかわれるような歯にワイヤーを巻くための歯に装着する方のようなものです。

 ワイヤーがすべて取れてもまだ終わりません。なぜかというと1ヶ月半歯をちゃんと磨けていない訳です。特に歯の裏側はまったく磨くことはできていません。完全栄養食品は歯垢も溜まります。この歯垢をどうやって取るのだろうと思っていました。すると、塩を歯に噴射して塩が研磨剤となって歯垢を取るのです。最近の歯垢取りは塩が人気があるようです。ただし、終わると歯茎から相当出血します。でも気持ちよいです。骨折前よりきれいになった気がしました。

 それからは1ヶ月に一度程度通院して4月に最終通院で一応完治という判断をしてもらいました。自分としてはまだまだ顎関節の部分に違和感があったり、下の前歯が欠けてしまったりすっかり元通りにはなっていません。大きな事故だったんだなと思います。幸い公務災害の認定もいただけそうなのでほっとしています。

 皆さんも人生何が起こるか分かりません。気をつけて下さい。死ななきゃみんな笑い話。ネタが多いほど面白い人生かもしれませんね。でもこの経験だけは二度としたくないです。ではまた!

(2007.06.11)

あごの骨折のお話しD
 いよいよ現場復帰です。マイクを使っての授業。できるだけプリントを使って進めます。腹話術のような話しを1時間続けることは厳しいものがあります。試験前なので静かに聞いてくれましたし、哀れに思ってくれているのだろうと思いました。自分としてはダイエットして体も軽くなったと思っていたら、生徒に「先生!日を追うごとにやつれていきますね。」といわれてショックでした。

 12月の上旬には、上下の歯を止めているワイヤーがはずれると思っていましたが、自分の予定よりは1週間遅くなりガックリしました。高校野球の指導者の集まりにも口が開かない状態で参加することになり、楽しみにしていた懇親会も辞退して帰りました。1年に1度の楽しみがなくなりました。学校の忘年会も出られず残念でした。忘年会にかけている私にとって、また私の芸を楽しみにしている人にとっては本当に残念なことでした。(誰も思っていないか?!)

 そして、やっとワイヤーをはずす日がやってきました。前日の夜に子供達が「おとうさんは口が開くようになったら何が食べたい?」と聞いてきました。もう何か買ってあるようなのです。そして、こんなことも言いました。「食べたいのはコーンスープのコーン?」私が流動食だけでは飽きてしまい、コーンスープをよく飲んでいたのを知っているからです。歯の間をコーンのつぶつぶは通ることができません。唇に粒をせき止めて飲んでいました。それを知っていての発言に思わず「あなたはえらい」と叫んでしまいました。子どもの見る目はすごいです。

 朝からうきうきして病院に行きました。これからは口が開いて何でも食べられるんだと思うだけで幸せでした。これから次々に起こる悲劇を想像することはできませんでした。まず、上下の歯を結びつけているワイヤーをはずします。これはまったく問題がありません。ついに口が開きました。しかし、まだ大きく口を開けることはできません。しかし、思ったよりいい感じでこれから何でも食べられると思って家路につきました。でも、早く口から何かを食べたいと思って最寄り駅の前の中華料理屋に入りました。そして、ラーメンを頼みました。

 出てきたラーメンを口に運んで食べようと思った瞬間思いもよらないことが起きました。なんとラーメンが歯にあたるたびに激痛が起こるのです。涙がでてきました。チャーシューは柔らかかったのですがメンマはかみ切れません。飲みました。1杯のラーメンを1時間弱をかけて食べました。早く家に帰った方が良かったのです。家に帰ると子供達が快気祝いをしてくれました。何が出てくるかと思ったら、大きなプリンでした。ありがたくて涙が出ました。しかし、「お父さん、声が変!」といわれた時にはがっかりしました。1ヶ月以上腹話術になれた耳には普通の声が変に聞こえるのですね。

 ワイヤーがはずれればすべてが終わると思っていた私にはそのあとにまだまだいろいろなことが起こるとは思ってもいませんでした。そして、最後の悲劇は次の通院で起こりました。
(2007.05.30)

あごの骨折のお話しC
 いよいよ上下の歯をワイヤーで固定する日が来ました。すでにゴムで固定してあるので流動食生活は始まっていますが、ワイヤーで固定すると例えばのどに物がつまうと救急車が着く前に死んでしまうという話しを聞いたので恐怖感が出てきます。病院の帰りにワイヤーを切るためにニッパーを買いました。常備しておくことにしました。

 すでに上下の歯はそれぞれ固定してあるので作業は簡単に終わります。完全に固定されるとまったく口を開けることはできません。まわりの方からも「おしゃべりのきたさんにはつらいだろうなあ。」といわれていました。自宅療養なので家族以外はしゃべることはありません。何とも寂しいものです。

 固定されて一番不安になるのは寝る時です。特に鼻が詰まってもいようものなら口しか空気のはいるところがありません。口でスースー激しく息をしてしまいます。非常に不安になります。体を横にすることで片側の鼻だけでも空気が通るようにしました。夜中に目が覚めてしまうと不安で不安で寝られなくなります。「死んでしまうかもしれない」という相当の恐怖感です。

 あれだけ好きなビールもとても飲む気になりません。三食流動食を飲んで夜8時に寝て朝6時に起きる生活が約1ヶ月続きました。あごの骨折以外はまったく健康的な生活でした、ここ2年間はいろいろなことがあって疲れが溜まっていた気がします。このけがは神様がくれたお休みなのだと思いました。あまりつきあえていなかった子供達とも長い時間いっしょに過ごすことができました。貴重な時間でした。

 何もできないので、本を読みました。話題のリリー・フランキーの「東京タワー」、恩田陸の「夜のピクニック」、東野圭吾の「手紙」、村上春樹の「海辺のカフカ」、李登輝の「武士道」解題ノーブレス・オブリージュとは、などいろいろと読みました。人生について今までの考え方が変わった気がします。健康あっての幸せ、家族あっての人生なのだなあと思いました。

 さて、学校のほうはどうしたのかというと3週間ほどお休みを頂きました。最初は2週間ほどで現場復帰のつもりでした。しかし、お休みの間に子どもの七五三のお祝いや義父の17回忌の法事がありました。人と会うとしゃべろうとします。しかし、口が開かないのでつらいのです。どうしても口を開けようとしてしまいます。法事が終わって家に帰るとどっと疲れてしまいました。これでは授業どころではないなと実感ました。通院で出かける日に学校へ寄りますが、打ち合わせ程度でした。たまたま、副校長先生が化学の先生だったので非常に助かりました。

 静かな日々が続きました。平和な時間でした。あごが骨折していることと口が開かないことを除いては。しかし、期末考査が近づいてきました。試験1週間前に現場復帰しなければいけないなと思い始めました。マイクを用意して口が開かないまま現場に復帰することになりました。

(2007.05.23)

あごの骨折のお話しB
 上下の歯を固定すると口からは一切食べ物を摂ることができなくなります。固定する前はもう食べられなくなると食べ物屋さんが気になりましたが、固定された状態になってみると意外に気持ちが安定してきました。摂れないものはしようがないというあきらめの境地です。

 流動食は、一袋300kcalです。一日目は、分からなかったので一袋しか摂りませんでした。粉をお湯に溶かして飲んでみると何とも味気ない感じでとてもブルーになりました。一応青リンゴ味、オレンジ味、グレープフルーツ味のフレーバーで味付けしますが、とてもおいしいものではありません。歯の間から摂る完全栄養食です。お腹もすいてきます。これしか食べられないんだと悲しくなりました。

 次の日に病院に行き、「お腹がすくんです。お湯で飲むとなかなか飲めないんです。」と聞いてみると「1回2袋です。氷を入れて飲まないとまずくて飲めません。」といわれました。一日6袋1800kcalは最低限度の必要カロリーです。これで足りるのだろうかと思いました。いろいろな知り合いに聞くと、この治療をすると激やせするといわれていました。どんな風になっていくのかこれまたブルーになりました。

 実際のところは、最初の1週間で5k以上減ってどうなるかと思いましたが、何もしないでいるとこの6袋で意外とお腹がすかないのです。いかに今までが食べ過ぎかということも実感しました。2週間目からは体重が減らなくなり、残念な気もしてきました。最終的には10kほど減量することになりました。無理矢理ダイエットです。

 かみ合わせも良いので、いよいよ上下の歯をワイヤーで固定する日が近づいてきました。どんなことになるのか。またまた不安な夜を過ごしました。

(2007.05.15)

あごの骨折のお話しA
 もんもんとするまま、月曜日に病院にでかけました。担当の先生はお休みですが教授の診断で全身麻酔をしてプレートを入れるのか、それとも全身麻酔なしで行くのか決まるといわれていました。どうなるのだろうと心配で病院に行ったのに教授の先生は「どうしちゃったんですか?」のひとことだけ。まわりの先生たちが作業を進め始めました。

 「えっ、どうなるの?」と思っているのは私だけです。何人かの先生たちが私のもとへやってきて作業を始めていきます。全身麻酔ではないので、小さい頃歯を抜く時に打たれた麻酔の注射のように麻酔が打たれていきますが酒飲みのきたさんにはあまり効きません。両側下顎骨折の治療は、上の歯と下の歯を矯正治療のもっとすごい感じで金属のワイヤーをひとつひとつの歯にまず巻いていきます。麻酔が効かないので本当に痛いのです。ワイヤーを巻くたびに猛烈な痛さです。今まで経験のしたことない痛さでした。訳の分からないまま1時間半の時間が過ぎていきました。

 涙がちょちょぎれるとはこのことです。このところ、ちょっとしたことで涙するようになっています。涙腺がゆるいなあ。と思っていましたがこの痛さは涙を流すしかないと思いました。その日は上だけワイヤーをまいたところで終わりのはずでしたが、下の骨が折れてずれているのでその部分をワイヤーで固定しました。相当の力が働いてつらかったです。ここまで引っ張るかという感じでした。

 しかし、家に帰ると下顎の状況が改善されています。もし、口腔外科の先生がいなければ、骨がずれたままで骨が固まってしまうのだろうなあと思いました。先生に感謝しました。ある意味安心して寝ることができました。

 次の日には、下の歯をワイヤーで固定しました。これまた、1時間半を要してつらいものでした。その日は担当医の先生が施術してくれました。その際に「大丈夫ですか?」と聞かれたことがありました。私は「大丈夫じゃありません。」と声を上げました。そうすると先生は「この手術が大丈夫な人はいません。でもこれしか方法がないんです!」といいました。「そうなんだ。これしかないんだ。」と思いました。口腔外科の先生にとっては何百件の症例を経験しているごく普通の手術なのだなあとも思いました。

 この日から、口から食べ物が食べられなくなると言われていました。ですから病院に行くまでの間、ありとあらゆる食べ物やさんが気になってしようがありませんでした。いよいよ、上下の歯を固定します。しかし、まずはゴムで固定することになりました。歯をゴムの力で左右上下に動かし、最もかみ合わせのいい状態で固定します。ついに口が開かない状態になりました。かみ合わせが良ければ2日後に今度は金属のワイヤーで固定することになります。

 そして、流動食の処方となりました。今日から1ヶ月以上これしかないのかと思いながら家に帰りました。いよいよ、流動食生活が始まりました。
(2007.05.11)

あごの骨折のお話し@
 昨年11月に練習試合中、ブルペンで投球練習していた生徒のボールがベンチでサインをだしている最中の私のあごに当たりました。歯がずれた感じがあり、出血もしていました。幸い頭への衝撃は少なく意識ははっきりしていました。後から考えるともう数センチ上に当たっていたら命の危険もあったと思います。あごの骨が折れることで頭部への衝撃を少なくするようになっているそうです。車のバンパーのような働きをしているのです。ボクシングなどであごを粉砕とかいうことは聞いていましたがどんな治療がおこなわれるのかはまったく知りませんでした。

 とりあえず安静にしていた方がいいなと判断し、倒れたままにしてゆっくり立ち上がり、相手高校のコーチの方に車で大学病院に連れて行ってもらいました。休日なので担当の先生はいませんでした。レントゲンの撮影もしないまま、今後の治療の仕方を簡単に説明してもらいました。骨折はしているようで抗生物質を飲んでおくこと、痛み止めももらいました。どうも全身麻酔であごにプレートを入れて上下の歯を固定するという説明でした。そして、入院となります。想像もできない状況。非常に不安な感じで家に帰りました。

 寝る時になると、折れたあごの骨が動くのが分かります。まっすぐ寝ようとすると骨折部分が開く感じです。ほとんど座った状態の方が楽でした。これからどんな治療になるのか、全身麻酔はいやだと思いました。医師の友達が何人かいたので相談しました。救急で運ばれた病院が悪いわけではないのですが、いろいろと相談できるだろうと次の日は最初の病院から友人の勤務する病院に転院することにしました。

 今はセカンドオピニオンという考え方があります。いろいろな病院に治療法を聞いてからどの病院で治療するのか判断するということです。最初の病院の先生はレントゲンだけは撮って診断をして、紹介状を書いてくれました。ありがたいことです。

 友人の勤務する病院で紹介された先生に診察を受けました。CTの撮影をしてみると下あごの2カ所が折れています。全身麻酔にするのかしないのかは月曜日に教授の先生の判断によると説明されました。不安なままそしてあごが固定されないまま、週末を過ごしました。
(2007.05.06)

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