2006年11月のひとこと

人生何があるか分かりません!
 お久しぶりです。またまた、書き込みされないまま半年以上経ってしまいました。昨年の父に続き、今年は母が亡くなりバタバタしていました。言い訳がましいですが、これからもぼちぼちゆっくりと続けていきたいと思います。人生何があるか分からない。今年も実感しました。

 昨年父が亡くなり、元気だった母も寂しそうになりました。一周忌を迎える時の気合いは半端ではありませんでした。その母が7月のお盆の送り火の日に倒れて二度と起きることはありませんでした。その日、今年の開会式のビデオをもって子供達と実家を訪ねました。TV中継を見なかったというので見せに行くためです。

 家に着くと中は暗く、先に入った子供達が「ばあばはいないよ」といいました。あらかじめ電話をしてからいくのですが何度かけてもつながりませんでした。私が家に入って今を見ると、泡を吹いて大いびきをかいている母がいました。いくら呼んでも答えません。この状況は非常に厳しいと思いましたが、まずは救急車を呼びました。気道を確保しのどを詰まらせないようにして救急隊を待ちました。

 数分後、救急車と消防車がいっしょに来ました。そして、弟もなぜか帰ってきました。この日の朝も元気に挨拶をして出かけたそうです。私はその前日にいくことを伝えていました。弟はだいぶショックを受けていました。救急車に乗って救急救命センターへ。状況を知るために待っていました。弟は子供達と実家で待っています。担当医師がやってきて非常に厳しい状況であることを告げました。脳のレントゲン写真には、脳の中で出血した血液が、脳幹もなにもかも包み込むように脳全体に真っ白に映っていました。手の施しようがないという言葉。どう受け入れていいのか。一瞬わかりませんでした。

 父の時は、葬場の関係で亡くなってから自宅に7日ほど帰ってきました。もうすでに亡くなっていたので、いろいろな手続きを進めることができました。しかし、今度は手の施しようがなく、厳しい状態でいながらまだ生きているため何もできません。ただ、待っているだけです。いつその日が来るのかも分かりません。非常につらい日が続きました。弟のショックは私よりも大きく、心残りがたくさんあるようでした。待っている間弟のまたいろいろな話しをしました。人の生死というのはこんな機会を与えてくれるのですね。

 集中治療室では、患者の手や足や髪を洗う日が決められています。運び込まれて4日目に髪の毛をみんなで洗いました。体温があるので普通に寝ているだけのような気がします。とても気持ちよさそうでした。しかし、呼吸も自分ではできないので人工呼吸器なのです。まったく反応がない状態なのです。

 そして、その翌日待合室に待機している私たちに連絡が入りました。すぐに病室に行くと母の顔色がまったくかわっていました。生気がありません。心電図もまっすぐになっています。時々ぴくっと動きますが心臓の鼓動ではないのです。そして、担当医師から母の死が伝えられました。今までなぜか涙が出なかった私ですがこのときは、号泣しました。ついに、二人ともいなくなってしまった。母を失った悲しさだけでなく強烈な寂しさを感じました。

 いろいろな方から、「仲が良かったのね」といわれます。相方が亡くなったことの喪失感は大きいのでしょう。仲の良い夫婦ほど続いて逝ってしまうというのはよく聞く話です。本当に仲の良い、いいコンビの夫婦でした。そして、永く患うことなくあっという間に逝ってしまった母は、性格通りの逝き方だなあと思います。そして、子ども孝行な両親だとも思います。介護疲れで共倒れにならないようにしてくれました。

 これで、両親がいなくなり、今度は自分の番かと思ったりします。寂しいのですが、子どもがいて良かったなあと実感しました。命がつながっていく感じです。しかし、子どもも小さいのでまだまだ元気でいなくてはいけません。きばらず、マイペースで行きたいと思います。これからもよろしくお願いします。

 と書いている今、あごの骨が折れています。試合中に予期せぬ方向から硬式ボールがぶつかりました。手術のあと金属で歯を固定されているため口が開きません。1ヶ月間このままです。本当に人生何があるか分かりません。人間万事「塞翁が馬」と前向きに生きたいと思います。骨折の話しは次回に詳しく書きたいと思います。 
(2006.11.10)

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